東京都葛飾区を拠点に、2022年から日本フットサルリーグ(Fリーグ)ディビジョン2に所属するフットサルクラブ「リガーレヴィア葛飾」。
Fリーグ参入初年度のリーグ戦が終了し、残る戦いは3月に開催される全日本フットサル選手権のみとなったが、これからさらに高みを目指していくクラブの中で、今シーズン限りでの現役引退を表明した3名の選手がいる。
No.11高橋 政之。
No.4碓井 孝一郎。
No.14米谷 悟。
今回はリガーレヴィア葛飾というクラブを、このFリーグの舞台まで繋いできた3人の男たちの歩みと、彼らの想いをお届けしたい。
(※以下敬称略)
ラストキッカー
リガーレヴィア葛飾(以下リガーレ)が、Fリーグを目指して本格的に活動をスタートしたのは2008年。当時は東京都フットサルリーグ所属の「デルソーレ中野(以下デルソーレ)」というクラブだった。
最短での関東リーグ昇格、その先のFリーグを目指したチームは、2010年2月に”最初の関門”である関東フットサルリーグ参入戦に進出。関東の各都道府県リーグを勝ち上がってきたクラブと、当時の関東リーグ2部の下位チームによるトーナメント形式の参入戦を勝ち抜き、関東リーグ昇格まで”あと1勝“と王手をかけていた。
しかし、勝てば関東リーグ参入が決まる試合は、2-2でPK戦に突入。
そしてPK戦では、相手にリードを許す劣勢の展開。
決めれば昇格への望みが繋がり、外せば1年間の戦いが振り出しに戻るーー。
チームの希望を背負ったデルソーレの”ラストキッカー”は、昇格への想いを込めて右足を振り抜いたが、ゴールネットを揺らすことは出来ず、そのままコートに崩れ落ちた。
正直、フットサルをやめようと思ってたんだよね。
あの時のPK戦のラストキッカーだった高橋は、当時を振り返る。
あのときはまだ若かったし、とにかく逃げたくて、逃げたくて、逃げたくて仕方なかったんだよね。チームとフットサルから逃げれば、別に考えなくても良くなるし…。
今思えば、すごく安易な考えだったなって思うんだけどねーー。
ーーあの試合で俺がPKを外して、西野さん(※西野宏太郎 現・リガーレヴィア葛飾GM)と松浦さん(松浦英 現・同 オーバー40監督)を関東リーグに上げられなかった…。
誰が何を言おうが、結局最後にあの試合で負けたのは、最後にPK外した俺の責任だと思ったし、『もうフットサルしんどいな』って思って。
それで、負けた2〜3日後に、西野さんと松浦さんと話したんだけど、二人がもの凄く支えてくれてさ。
本当はその場でふたりに、『すいません。フットサル辞めさせてください』って言うつもりだったんだけど、西野さんは『(負けたのは)お前のせいじゃない。PKを蹴らなかった俺の責任』って言ってくれて、松浦さんも『PKはもう運だから、仕方ない』って。
それで、もう1回だけーー。『もう1回だけフットサルを続けて、このチームで頑張ろう』って思ったんだよね。
ーー何があっても、このチームで高みを目指す。
逆境の中でも、最初の志を貫き通した高橋のフットサル人生は、
やがて関東リーグ、そして、Fリーグの舞台へとつながった。
”情熱的で、闘志溢れるセンターバック”
”ディフェンスのスペシャリスト”
ーーそんな印象を残しながらコートを去る41歳の大ベテランに、今の想いを聞いた。
Q.引退という決断に至った理由を教えてください。
理由としては大きく2つあって、まず1つ目が怪我。
両足首の状態が以前から悪かった中で、今年からFリーグに上がって練習日が増え、練習の強度も同時にさらに上がったことで、常に両足首が腫れていて…。
週の半分は治療しないといけない状態がずっと続いていた中で、これ以上現役を続けるのは厳しいという判断をしました。引退は今シーズンのかなり早い段階から考えていて、(2022年6月の)Fリーグ開幕戦の(ポルセイド)浜田との試合が終わった時からある程度、頭の中で決めていました。
こんな状態なので、練習や普段でもトレーナーには本当に迷惑かけてきたんだけど、できる限り長くプレーできるようにケアしてくれて本当に感謝しています。
2つ目が、クラブ運営のため。
自分はいまクラブの代表をやらせてもらっているんだけど、本当にクラブ運営って大変でーー。
今は西野さんを中心にクラブの運営をやってもらっているんだけど、それは『お前は選手をやってるから』と、プレーに支障が出ないようにフォローしてくれていた背景があって。
そんな中で(運営に携わってくれている)西野さんやクラブのスタッフの大変そうな姿を1年間見てきて、今後は代表として、クラブ運営に専念して力を入れていきたいと思ったのも、大きい理由のひとつでした。
Q.フットサル人生を振り返って、印象に残ってるエピソードや思い出があれば教えてください。
(参入戦のPKも含めて)本当にたくさんあるんだけど…
自分のフットサル人生で一番のハイライトを上げるとしたら…2015年の関東フットサルリーグ1部の初優勝を決めた試合かなーー。
西野さんが監督、サスーン(No.4 碓井)がキャプテンのシーズンで、リーグの最終節で会場は駒沢体育館。観客もほぼ満員で、この試合に勝てばリガーレが優勝、負ければ他チームが優勝という状況。
その試合、もの凄くコンディションが良くて、開始40秒に左足のトーキックで先制点を決めて、(結果的に)5-1で試合に勝って。
まぐれかもしれないけど(笑)、自分のベスト・オブ・ベストのプレーができて、チームも関東リーグ1部で初優勝。
フットサル人生で初めて、勝って試合で泣いた日だったねーー。
Q.今後、リガーレヴィア葛飾のクラブ代表としての展望などあれば教えてください。
まずは、もっともっと応援してくれるサポーターを増やしていくことが大事だと考えていて、そのためにはもっと選手たちが”魅力溢れるプレイヤー”になってほしいと思っています。
例えば、『こいつのためだったら応援しに行く』とか、試合の流れの中では些細なプレーかもしれないけれど、チームのために体を投げ出したり、心を打たれるプレーがあるとか…。リガーレはそんな選手やプレーの積み重ねで、応援してくれる人たちが増えてきたと思っているので。
本当に昭和の人間で申し訳ないんだけど(笑)、(リガーレだけでなく)Fリーグ全体の話として、今の時代の子たちって、自分の感情を出すプレイヤーがものすごく少なくなってきると感じていて。
淡々とボールを回して、ゴール決めて、決めたやつだけガッツポーズして…というよりも、感情や気持ちがプレーからも垣間みえて、応援したくなる選手を増やしていきたいです。
なので、テクニックや戦術の部分は監督にまかせて、自分はそいうった選手のメンタリティというか、(プレイヤーとしての)人間教育をやっていきたい。そして、応援してくれる方が増えて、スポンサーに興味をもってくださる方も増える…というような好循環を、クラブ代表としては取り組んでいきたいと思っています。
Q.最後に応援してくれたサポーターへメッセージをお願いします。
もう本当に、『ありがとう』っていう言葉しかないです…。サポーターがいなかったら多分こんな長く選手をやっていなかったと思うし、メンタルの部分も支えてもらって。
これはサスーンともよく話すんだけど、『俺ら、(サポーターがいなかったら)もしかしたらチームが無かったかもしれないし、選手としてもここまでやってこれなかったよね』って。
それぐらい、感謝の気持ちしかないですし、最後この感謝を僕らがどういう風に返せるのかなっていうのを今後考えていきたいです。
本当にありがとうございました。
仲間想いのレフティー
高橋がラストキッカーとなった2010年の関東リーグ参入戦。
当時、Fリーグの舞台で戦っていた碓井は、その戦いの結果を聞くために、ある男に電話をかけた。
電話をかけた相手は、Fリーグの舞台でも一緒に戦い、同じチームで長く苦楽を共にした尊敬する先輩の松浦。
ーー電話の先で、松浦は泣いていた。
『(松浦の)その声を聞いて、助けに行こうと思った。』
その一心でFリーグの舞台から、4つカテゴリー下の東京都リーグのチームに移籍してきた碓井。
その左足は、リガーレが東京都から関東、全国へ駆け上がるチームの原動力となった。
2015年にはキャプテンとして、悲願の関東リーグ1部を初制覇。
仲間を想い、仲間に慕われーー
支えてくれる人の声援を、
歓声に変えてきたレフティー。
リガーレのために戦い続けた13年間。
25歳でFリーグの舞台を降り、
38歳でFリーグの舞台に戻ってきた碓井は、今シーズン限りでコートを去る。
そんな碓井に 、今の想いを聞いたーー。
Q.今回、引退という決断に至った理由を教えてください。
理由は2つあります。
1つ目は、シンプルに自分の出場時間が減ってきた点です。
出場機会と時間を伸ばしてチームに貢献するには、トレーニングを積んで、パフォーマンスを上げて、セットに入って…というアクションを積み重ね、さらにトレーニングを重ねていく…という必要があります。
ただ最近は、体のどこかに痛みが出てしまったり、小さなケガや筋肉系のケガが重なってしまい、個人的なもどかしさを感じていて。
そのもどかしさの反面、「自分はまだできるんじゃないか…」という葛藤もあって悩んだんですけど、若い選手たちも育ってきましたし、ここで選手として身を引くのが良いのかなと考えました。2つ目はレディースや教えている子供たちに対しての思いからです。
僕は選手をやりながら(リガーレヴィア葛飾の)レディースの監督や、下部組織の子どもたちを教えているのですが、(選手と監督・コーチとしての)活動がかぶってしまうことがあり、自分の本来の役割・仕事との両立がなかなか難しいところがあります。レディースの選手たちや子供たちの”今しかない時間”を、(選手としての)”自分に使ってしまっている”という部分の葛藤も凄くあって…みんなのためにもここで選手としては身を引くという決断に至りました。
Q.フットサル選手としての人生を振り返って、印象に残ってるエピソードや思い出があれば教えてください。
本当に色々あるんですけど…
ハイライトの場面を上げるとしたら、シャークスに入団して、伊豆でみんなで寮生活をして、スペイン人のパコ監督(パコ・アラウホ監督)のもとでプレーできた1年間は、僕の今までの競技生活を支えてくれたものになったんじゃないかな…って思っています。そこで一緒にプレーした仲間とは今でも繋がりがありますし、フットサルの基礎を教えてもらいました。パコが教えてくれたことは、僕が監督や指導する立場になった時の基本・基礎の部分として大きいものがあります。
その後花巻(※ステラミーゴいわて花巻)に移籍して、出会った監督や仲間、支えてくれた全ての人たちも大切な宝物ですし、そこからリガーレに移籍して、ここでも仲間に恵まれてーー。今でも当時のことを思い出しますけど…本当に自分は運が良くて、仲間に恵まれて、プレーし続けられたフットサル人生だったなと思っています。
Q.最後に応援してくれたサポーターへメッセージをお願いします。
コメ(※米谷)のように上手いわけでもないし、タカハシみたいに気迫あふれる守備ができるわけでもない…本当に大したことない、僕みたいなもんをみんなが可愛がってくれて、 応援してくれて…。
僕がフットサルという競技を続けられたモチベーションは、やっぱり『応援してくれてる人がいるから』とか、『あの人たちが喜んでくれる』とか、『あの人たちがなんか僕を褒めてくれるから』とか…そういう支えてくれる人達にいつも恵まれて背中を押してもらえたから、ここまでプレーし続けることができたと思います。
本当は僕がみんなを感動させなきゃいけないのに、ゴールを決めてスタンドを見上げると、サポーターの皆さんが喜んでくれる姿に本当に感動させられて…本当に幸せでした。
本当にありがとうございました。
フライングフットサラー
碓井がキャプテンを務め、リガーレが関東リーグ1部の初タイトルを手にした2015年。
最後までリガーレと優勝を争い、準優勝したチームがZOTT早稲田フットサルクラブ(以下ZOTT)。そのチームの主力として19ゴールをマークし、関東リーグのベスト5にも選出されたのが米谷だった。
翌年の2016年にリガーレに移籍した米谷は、加入初年度からリーグ戦全16試合に出場。
リガーレの関東リーグ連覇に大きく貢献する。
ZOTT、そして関東リーグの”顔”だった米谷は、やがてリガーレの“顔”となり、チームを牽引し続けてきた。
コートを舞い飛ぶような、躍動感。
泥臭さもいとわない、攻守への献身。
そして、チームとサポーターの気持ちを揺さぶるプレーを、冷静に、情熱的に、やり続ける。
どんなときでも、勝つためにコートを飛び続けてきた、”フライングフットサラー”。
米谷は、Fリーグ初年度の今シーズン、17ゴールを決めてリーグ得点王になった。
そんな”引退”という言葉が最も想像しづらい米谷に、今の思いを聞いた。
Q.今回、引退という決断に至った理由を教えてください。
まず結論から言うと、僕は指導者の勉強もっとしたい。もっともっとフットボールやフットサルの指導の道で、もっと学びを得ていきたいというのが大きな理由です。
(具体的なイメージとしては)1番やりたいのは育成年代の子供たちを教えていきたいです。ただ、もしチャンスがもらえるのであれば、僕の今までの経験や築いてきたことを伝えることにより、チームにポジティブな貢献ができるのであれば、 できるだけ上のカテゴリーでも協力させてもらいたいな…という思いがあります。
ただ、僕もまだ(選手として)シーズンも終わってないので、 指導者の道をまだ本格的には進んでいない中で、今後どうなっていくかっていうのはちょっと自分でもまだ読めないところではあります。Q.リガーレやZOTTなど、チームの中心として長く活躍された印象があります。フットサル人生を振り返って、印象に残っているエピソードや思い出があれば教えてください。
(エピソードで言えば)
ZOTTやリガーレという話がありましたが、僕がもともとフットサルを始めたのは埼玉県の施設リーグのチームで「ラピドFC」というチームでした。このラピドFCでは約3年のシーズンを過ごしたのですが、僕はこのチームで得た経験が今でも生きています。簡単に言えば、「仲間を信じて勝利を手繰り寄せる」こと、「日々の取り組みを、仲間と一緒にできる限り全力で取り組んでいくこと」です。
そうすることで何を得たかというと、(当時の)僕ら施設リーグのチームから見たらもの凄く格上の相手である県の1部リーグや関東リーグのチームに対して、残り5秒で逆転したり、もの凄く強いチームに勝ったり、ありえないような勝利の仕方をしてきた経験があって、その時に自分が感じた経験や体験は、今でも本当に凄く大事にしています。
その後ZOTTに入らせてもらっても、同じように仲間を信じて勝利を目指してプレーすることで、全日本選手権でFリーグの(アグレミーナ)浜松相手に勝利を収めたり、5点差のビハインドを背負った苦しい状況でも逆転できる…という経験がありました。
その後リガーレに入団しても同じように戦い、リガーレのスローガンでもある「泥臭く」「かっこ悪く」「リガーレらしく」を体現して、多くのサポーターも一緒になって勝利を手繰り寄せることができたのは、僕にとっては本当に良い経験でした。
(思い出の試合としては)
本当に沢山ある中で…リガーレの皆さん申し訳ないのですが、ZOTTで関東2部から 関東1部に上がる入れ替え戦です。
(入れ替え戦のレギュレーション上)昇格するには引き分けではダメな状況で、試合終盤にフリーキックで転がってきたゴールを僕が決めて逆転。そこからピンチをしのいで、悲願の1部リーグに昇格。あの時の1年間は、本当に僕にとっては何事にも変えられない、価値のある1年でした。
リガーレでも優勝を2回もさせてもらって思い出がたくさんありますが…やっぱり僕自身は、このFリーグに参入した初めての水元でのホームゲームで、あの時に 感じた”会場との一体感”は、もう1つの大きな財産になりました。
Q.最後に応援してくれたサポーターへメッセージをお願いします。
(引退セレモニーの)スピーチで話しきれなったことも含めて、伝えたいことがあります。
まずはいろいろなチームで出会い、フットサルを教えてくれた人たちに本当に感謝をしたい。
その中でも特に、ここであえて名前挙げさせてもらいたいのが、今JFAでダイレクターをしている前川さんです。
全然フィジカルのない僕でも、こうやってFリーグの舞台でもそれなりに戦えるようになったのは、本当に前川さんのおかげですし、前川さんとの出会いがなければ今の僕はないので、この場を借りて、 本当にお礼を言いたいです。(※)(※補足 米谷選手はZOTT時代に前川さんの指導を受け、自身の強みを活かしたプレースタイル、戦術面、フットサルの深さを学んだという)
もう1つは、現役生活最後のホームゲームに、リガーレ以外のたくさんの友人も見に来てくれました。
僕が前に監督をしていたYHS(※フットサル東京都3部リーグ所属)の選手や大学時代の友人など、いろんな人が見に来てくれて、その人たちの出会いがあったからこそ今僕はピッチに立てているので、ほんとに感謝しています。そして、最後にスピーチでも伝えたのがすべてではありますが…
サポーターの皆さん、今まで本当にありがとうございました。
2人の証言
長年リガーレを支えてきた3選手について、同じようにリガーレの象徴であり続けた2人に話を聞いた。
松浦英 (リガーレヴィア葛飾 オーバー40監督)
Q.リガーレにとって3人はどんな存在だったのでしょうか?
(米谷選手について)
コメは僕が引退した翌年に入ってきたので選手としては凄い評価しているんですけど、一緒にプレーをしていないのでコート上での思い出や存在について語るのは難しいですね。でも一つ言えるのは、違うチームから移籍してきたのに、”リガーレらしさ”を1番体現してたプレイヤーで、本当リガーレというチームを愛している選手だと思います。
高い技術に加えて、メンタルやチームをまとめる力も含めて、本当に”背中で語るタイプ”の選手だなというのを感じています。(高橋選手について)
高橋は僕が入団した時からいる選手で、本当に長い間共に戦ってきた仲間で。関東リーグへの参入戦を一緒に何回もチャレンジして、参入戦のPKで負けて大泣きしたこともあったしね…。
昔はほんとに下手くそで、あいつがFリーガーになるなんて絶対ありえないことだと思っていたんだけど(笑)、ほんとに努力を積み重ねた選手だなと思います。そしてチーム運営の面でも、もの凄いマネジメント力を発揮してくれたことが、このチームが大きく成長できた要因だったとも思います。
ーー(参入戦のPKのように)負けてる時や苦しい時も多かったですが、いい場面でも活躍してきたし、最後はいいフットサル人生を送れたんじゃないかな…と思います。
(碓井選手について)
サスーンとはシャークスというチームで長く一緒にやってきて、ほんとに俺のこと慕ってくれて…。
自分が引退するシーズンに、キャプテンとしてこのチームをまとめてくれて、関東リーグ優勝、全国大会や地域チャンピオンズリーグも準優勝という最高の成績を残すことができたのは、サスーンの力が大きかったと思います。
とにかくあいつは、本当に”人思い”なんだよね…。仲間思いで、気遣って…それもサスーンの、チームをまとめる力の要因のひとつだったなと。
日本代表選手になったかもしれないくらいテクニックの高い選手だから、メンタル面で少し弱いところを乗り越えていたらもっと凄い選手になったかもしれない…。
でも、サスーンは僕のプレーを評価してくれて、それを自分で体現したいという思いでこのチームに入ってくれて、それをFリーグに上がっても体現し続けて若い選手に伝えてくれたので、本当に感謝しかないですね。(高橋、碓井両選手とプレーした思い出は)
自分が現役の時は勝つよりも負けてる時間の方が多くて…。
負けたり上手く行かない時に人間って本性が出て、すぐ『別のチームに行きたい』とか移籍してしまう選手もいたんですけど、二人はたとえ負けても、人数が少なくなっても、『このチームで頑張りたい、勝ちたい』という気持ちを常に出してくれた選手だなと思っています。
Q.今回引退する3人へメッセージをお願いします。
コメとは本当に一緒にやりたかったな…という思いがあります。自分の現役時代にもし彼とプレーしていたら、僕はファーサイドでパスを待っていればよくて(笑)、ボールと相手を追いかけまして、もっともっと面白い試合が見せれたんじゃないかなと。何より技術力が高いし、人を引きつけるものがあって、 リガーレというチームに与えてくれた影響力は大きかった思います。
サスーンは、本当に長い間一緒にプレーして、何回一緒に泣いたかわかんないけど、最後のホームゲームで、あいつがゴールを決めた時は俺も泣いてしまったし、感動しました。そしてフットサル人生の最後の試合を、”嬉し涙”で終えることができたので良かったなと思います。
高橋に関しては俺と西野と1番長くやっている選手で、リガーレの歴史とともにある選手だと思います。(怪我の影響で)実は前からうちの治療院に来ていて、試合に懸ける強い気持ちを感じたので、自分も休日を削ってサポートしました。最後のホームゲームの前日に一緒にサウナに行ったときは、『俺頑張りますよ』って決意を語っていたんですけど、最後まで”守備の選手”というのを体現したと思います。
3人とも、本当にお疲れ様でした。
西野宏太郎 (リガーレヴィア葛飾GM)
Q.リガーレにとって3人はどんな存在だったのでしょうか?
このクラブの歴史を長く知ってる3選手なので…松浦が引退した後、クラブの良かった時・悪かった時や、大事なことを語り継いでいく部分も含めて、”リガーレの全て”を知っているという意味では、このクラブの象徴のような選手たちというイメージを持っていました。
(米谷選手について)
見ての通りですが技術的にも戦術的にも非常に優れている選手で、試合の中でスコアを動かせる本当に素晴らしい選手だと思っています。そして大事な試合でも緊張もせず、周りに左右されることなく、淡々と冷静に自分のプレーをする選手です。
特に記憶に残っているのが(2019年の)地域チャンピオンズリーグの名古屋オーシャンズサテライトとの初戦です。相手には外国人選手がいて、こちらはチーム全体のコンディションが良くなく圧倒的に状況が悪い中でも、1人で淡々といつもと同じようなプレーを続けて、相手の脅威あり続けた。相手が自分たちより強くても弱くても、『自分の軸を持ってプレーをすること』をやっぱりコメはできる選手なんだなと感じたのがとても印象に残っています。そして最後はリガーレで引退してくれて、本当に嬉しく思っています。(碓井選手について)
サスーンとは長く一緒にやってきた中で思うのは、『コートの中で彼にしか作り出せない左足のシュートとパス』を持っていて、何本もゴールにつながるパスを通して、何本もゴール決めてきた選手だということ。そして、メンタルの部分やコンディションに波があっても、周りのサポートや応援を力に変えてプレーする選手だということです。
最後のホームゲームでもゴールを決めましたけど、特に印象に残っているのが、関東リーグ時代に水元で開催したホームゲームですね…。関東リーグでも稀な大きな声援を送ってもらい、自分が教えているスクールの子供たちからの応援を力に変えて、素晴らしいシュートを決めた試合でした。良い意味で練習ではあんまり見ないようなゴールを、沢山の応援してくれる人たちの前で決めれるというのは、選手としてやっぱりその「応援を力に変えれられる選手」なんだなって思いますね。
(高橋選手について)
高橋については技術的なものよりも、フットサルという競技で勝つ上で”守るべきこと””必要なこと”をプレーで示すというところをしっかりやってくれる選手だと思っていますし、特にディフェンス面での貢献度は非常に高かったなと思っています。
昔は本当にめちゃくちゃ下手くそな選手でしたけど…そこから関東リーグや、この舞台(Fリーグ)でプレーできるようになるまでやり続けてきたということと、この年齢で復活したということ自体が、彼の最大のハイライトなのかなと思っています。Q.今回引退する3人へメッセージをお願いします。
自分は(選手として)先に少し引退しましたけど、選手同士として長い間プレーをして、選手兼監督の時にも長い間、自分のもとでやってくれた選手たちです。
なので、コートの中でも、監督と選手という間でも、共に喜びや苦しみを味わった選手たちなので…自分の中でも本当に思い出深いです。引退という”ひとつの節目”は、誰にでも来るものだと思います。
それを自分で決断し、これからどういう人生を過ごすのかを考えるときに、『練習がない時にどういう時間を過ごすか?』とか、『フットサルがなくなったら、どういう風になってしまうんだろう?』という不安もあると思うんですけど、これまでの経験を、3人それぞれが違った形でリガーレの中に還元してもらえたらなと思っています。そして素晴らしい人格を持ってる3人なので、第2の人生と生活を楽しんでほしいと思います。
今シーズン、最後の戦い。
3選手の”ラストゲーム”と、リガーレヴィア葛飾の今シーズンの最後の戦いである「JFA 第28回 全日本フットサル選手権」は3月に開催される。是非、今シーズン最後の戦いにご来場いただき、その勇姿を目に焼き付けていただきたい。
リガ犬の”勝手に”タイムアウト(3選手保存版)
Presented by @ligaken
今回は”勝手にタイムアウト”にも多大なる貢献(?)をしてくれた、3選手のこれまでのトピックを、関東リーグ時代も含めた総集編としてお届けします。
◎碓井半端ないって
2019年の関東リーグ開幕戦の前半に、後からのロングボールをむっちゃダイレクトボレーしたNo.4サスーン選手に対し、”そんなんできひんやん普通”の声が会場から上がっていた模様。
◎月9ドラマ
とある屋外練習場にて、雨が降るスリッピーなピッチコンディションの中、タッチライン際で競り合っていたNo.4サスーン選手とNo.24相原選手が最終的にもつれあい、2秒の抱擁と見つめ合いタイムが発生。
◎ベテランの風格
シュート練習中、きれいなファー詰めを決めた選手に対して祝福の声が充満する中、No.4碓井選手は「いいぞ!ビブス逆だぞ!」と片時も離れないベテランの視野の広さを発揮。
◎生粋のアラ
練習前、飛田給のガラ空きの駐車場という広大なスペースを見つけたリガーレ11年生(推定)のサスーン選手は、大きくヘドンドしてボブ選手の車の隣に自らの車を横付けしていた模様。
◎新曲
練習開始前に、とある選手からどきゅーんずきゅーんと胸打つ眼差しを受けたNo.4サスーン選手は、新曲『ごきげんななめだぜっ! 〜No.24 aihara 〜』を緊急リリース。
◎ビデオレター(1)
No.4サスーン選手のお母さんにZoomでメッセージを送ることとなったNo.10尻屋選手は、『お母さん、僕のことわかりますか?』と生き別れのテンションでいきなり話しかけていた模様。
◎ビデオレター(2)
そんな尻屋選手のメッセージにも全く微動だにしないお母さんの姿を見たNo.4サスーン選手は、『俺の親、Zoomなのに全く動かなくて銅像みたいなってるんだけど』と、念の為安否の確認を行っていた模様。
◎うすいくん(1)
とある関東リーグの試合会場入り後、No.53柴田選手に『話すときはマスクして〜』と先生のように注意されてしまったNo.4サスーン選手は、『いま飲んでたのっ!』ととっさに返答したものの、その手は完全に手ぶらだった模様。
◎うすいくん(2)
とある公式戦の試合後の体重計測で、体脂肪率が7%だったNo.6尾方選手を発見したNo.4サスーン選手は、『やべー!お前エグザイルじゃん!』と勝手にテンションがRisingSunしていた模様。
◎うすいくんの夏休み
Fリーグ開幕戦の試合後の控室で、シャワーを浴びながら「やべー☆変な虫がいる!」と何度も繰り返し、夏休みの昆虫採集的なテンションで騒いだNo.4サスーン選手ですが、言葉の原稿用紙が400字埋まってしまったため、結局誰も何の虫かわからずに会場をあとにした模様。
◎SasoonSONIC
2×3mの四角い枠に向かってNo4サスーン選手がスタイリッシュに白球をぶち込むという日本三大フェスティバルの一つ、「Sasoon SONIC(通称サスソ二)」が2023年1月28日(土)に、東京都葛飾区で開催された模様。この日のために書き起こした”2点目のLastPass” で幕を開けた今回のフェスは、自身の代表曲でもある“左足のゴラッソ 〜feat.Kantaro〜” で締めくくり、ファンの記憶に残るパフォーマンスを披露。広島でのラストフェスの入場券は各プレイガイドで販売中。
◎多分褒めてます
『試合中にもっと褒めてほしい』とリクエストしたno14米谷選手に対し、no5田嶋選手を中心にベンチから『コメ、ライス!』という声援が飛んでいた模様。なお本人が気づいているかは不明。
◎米米クラブ(1)
有明での練習に身体一つだけでコートにIn the sky し、自身の代表的なナンバーでもある『浪漫飛行』を披露したNo.14米谷選手ですが、カップリング曲『ぶち抜かれたシーンはカットで』も不本意ながら緊急リリース。
◎米米クラブ(2)
とある練習試合にて、先制点を含む”浪漫飛行”で軽快なパフォーマンスを見せたNo.14米谷選手ですが、試合後のアンコールでは『塩がゾノの言うことに全く反応しない』という理由から、新曲 ”SHIO ZONO WAR” を初披露。
◎米島康介
とある練習試合にて決勝点を決めたNo.14米島康介選手は、『(決勝点)気持ちいい…チョー気持ちいい』とやや古めの名言を残してMFP千住のフロントをあとにした模様。
◎なつかしの風景
全日本フットサル選手権の東京都大会決勝戦前のウォームアップにて、No.14米谷、No.7岡崎の両選手がブラジル体操を披露し3往復くらいするも、部員は2名だけだった模様。
◎米米クラブ 〜2022 春〜
No.14米谷選手が身体ひとつでコートにIn the Skyし、何よりもチームの勝ち点3を気づかせてくれるという日本三大ツアーのひとつ「米米クラブ 〜2022 春〜」が島根県浜田市で開催された模様。ツアーではオープニングナンバーとなった「KOMEKOMEWAR」のほか、「例えばKOMEがいるだけで 〜feat.No.9〜」、「浪漫飛行 〜ハットトリックver〜 」など計3曲を披露。今後も東京都(葛飾)を中心に全国各地で開催予定。入場券は各プレイガイドで販売中。
◎たとえばチャボがいるだけで
しながわ戦前の控え室にて、「あれ?チャボ(藤川選手)いる?」と試合前のロッカーで視線を浪漫飛行させたNo.14米谷選手ですが、思いっきり隣に藤川選手がIn the skyしていたため何より恥ずかしい思いをしていた模様。
◎1493日分の一発
デウソン神戸戦の前半に右足トーキックでスーパーゴールを決め、ハーフタイムの控え室でチームメイトから祝福されたNo.14米谷選手は、「18年(1493日)練習したら蹴れた」とこれまでの重みが凝縮された一言を放っていた模様。
◎米米クラブ 〜THE・FINAL〜
No.14米谷選手が身体ひとつでコートにIn the Skyし、何よりもチームの勝ち点3を気づかせてくれるという日本三大ツアーのひとつ「米米クラブ 〜THE・FINAL〜」が2023年1月28日に東京都葛飾区で開催された模様。惜しまれながら開催された今回のツアーでは、定番のオープニングナンバーとなった「KOMEKOMEWAR」のほか、「例えばKOMEがいるだけで 〜feat.Sasoon〜」、「浪漫飛行 〜ハットトリックver〜 」など計3曲を披露。広島でのツアーファイナルの入場券は各プレイガイドで販売中。
◎平成のツッコミ
とあるリガーレ東京関連のLINEグループでの会話中、トーク内容に異議申し立てを行った高橋代表の返信が「HEY!HEY!HEY!」だった模様。
◎Cの巨塔(1)
東久留米市で行われた練習試合にて、定期回診を行っていたリガーレ東京大学付属病院のNo.23 高橋教授は、試合後に肩があがらず困っていたNo.40塩選手に対し、『腰と肩はおじさんの病気だからね』と5m先からの目視で四十肩であることを早々に認定。
◎Cの巨塔(2)
江東区有明にて行われた練習試合にて、定期回診を行っていたリガーレ東京大学付属病院のNo.23 高橋教授は、この日普段より滑舌が悪かったNo.11田口選手に対し、『塩の車に乗ると滑舌が悪くなる”後天性塩対応症候群”』と認定。本人に経過観察を推奨した模様。
◎ビジネスマン
とある練習試合のハーフタイムに『責任感もって守備やろうよ!』とNo.21藤原選手がチームを叱咤激励した5秒後、No.23高橋選手が『責任感持ってやろう!』と、まるで自分が最初に言い出したかのようなテンションでプレゼンテーションを敢行。
◎交渉決裂
とある練習試合前、マルバの馬場選手に『ドリブルとシュート禁止』という斬新なソリューションを提案したNo.23 C選手ですが、残念ながら交渉は3秒で決裂した模様。
◎師弟関係
関東リーグの開幕戦の試合直前に、西野TDから『お前、(相手ピヴォの)岡野を止めれなかったらどうにかするからな?』と2人にしかわからない独特な激励を受けたNo.23高橋選手は、愛車のBMWを彷彿とさせる駆けぬけるディフェンスを見せてクリーンシート達成に大きく貢献。
◎助言
とある練習試合後、No.19大薗選手に対し『お前、”足元”狩られるなよ』とベテランらしい的確なアドバイスを送ったNo.23高橋選手ですが、”足元”とはフットサルではなくエアマックス95を指していた模様。
◎居酒屋まつうら
とある試合前、各選手の給水ボトル準備を準備する松浦店長に対し、No.11高橋選手が「濃いめで梅干し入れてもらえます?」とのリクエストを送るも、最終的に”水ワンフィンガーの水割り”という独特なドリンクが提供された模様。
◎アウェーの洗礼
試合会場に到着したものの予定されていた入場口に鍵がかかっていたため、「これはアウェーの洗礼だな…」と主張したNo.11 C 選手 は、シャイニングのジャック・ニコルソンばりに顔面から扉をこじあけに行こうとしたものの、冷静に周囲に静止された模様。
◎猛牛違い
ジャック・ニコルソン化を阻止されたものの、どうしても会場に入りたいNo.11 C選手は、闘牛士の形態模写でNo.25熊谷選手を分厚いガラスのマントに誘い込もうとしたものの、(フウガすみだ)バッファロー違いで失敗した模様。
◎伝統芸能
試合前の控室にて、「今日のキーパーのユニフォームはヴェルディ?スキーウェア?」と知る人ぞ知る”リガーレ時代の伝統芸能ワード”をかましたNo.11 C選手ですが、都内在住の藤川優佑さん(24)が恐れおののくことなく「暑くて着れないです」と冷静にツッコミを入れたため、伝統芸能も新たな時代に突入した模様。
◎キャリアハイ
しながわ戦前の控え室にて、「高橋が喋ると誰も反応せず、ロッカーが3回静寂に包まれる説」を発表したNo.14米谷選手に対して、「おいコメ、そんなわけねーだろ!」と突っ込んだNo.11 C選手ですが、見事に4回目の静寂を獲得してキャリアハイをマーク。
※最後に筆者から3選手への追伸
勝手にタイムアウトに引退はありませんので、今後共、末永くよろしくおねがいします…
夏の飛田給と、東陽町の夜。
最後に少しだけ、
筆者の戯言にお付き合いいただきたい。
今から10年以上前。
筆者もほんの少しだけ、このチームの選手として、共に高みを目指して戦った経験がある。
ーー2011年の9月。
夏の飛田給での、とある練習試合。
この日、怪我をしてサポートに回っていた選手がいた。
いつもはプレーで、結果で、チームに貢献している選手だった。
試合が始まると、青いフロアタイルに汗が滴り落ちる。
するとその選手は、誰とも役割が決まっていないモップ掛けを率先して、ひたすらに床を拭き、チームのために前向きな声を出し続けていた。
その選手の名前は、サスーン。
多分、あの日のことをサスーンは覚えていない。
でも、あの日、筆者に『チームに貢献するとは何か?』を、行動で教えてくれたのはサスーンだった。
ーーちなみに筆者の公式戦の出場機会は、1年間で、たったの30秒だった。
率直に言って、チームの戦力にもなれないような選手だった。
「何の為にフットサルしてるんだろ?」
そう自問自答する時もあったけれど、
終電が無くなった平日の深夜1時に、いつも東陽町の練習場から回り道をして送ってくれて、その自問自答や、愚痴や、悩みを聞いてくれて、何度も励ましてくれた選手がいた。
「色々あるけどさ。マジ、頑張ろうぜ。」
サスーンはいつも、前向きな言葉をかけてくれた。
多分、あの日のことも、サスーンは覚えていないかもしれない。
でも、サスーンのあの言葉で、筆者は何度も救われた。
ーー選手としてチームの戦力には全くなれなかったけれど、あの1年間と、あの夏の飛田給と、東陽町からの帰り道は、筆者にとって大きな学びであり、今では忘れられない大事な思い出になっている。
あの時からは、
だいぶ月日は流れてしまったし、
プレーでは返すことはできなかったけれど、
サスーンがボールを追いかけている間に、
あのときの恩をいつか、何かの形で返したいと、密かにずっと思っていたーー。
筆者が、このリガーレヴィア葛飾というクラブと、サスーンに”再会”してから、もうすぐ4年。
『あのときの恩を少しでも、サスーンへ返せてきただろうか…?』
ーーこの自問自答の答えは、出ていない。
ただ、文末に添えてひとつだけ。
筆者からサスーンへ送りたい言葉がある。
「サスーン。人生色々あるけど、これからも頑張ろう。」
「リガーレタイムズ」とは?
東京都葛飾区をホームタウンに活動するフットサルクラブ「リガーレヴィア葛飾」(以下リガーレ)のトップチームの活動や試合レポートを中心に、リガーレの「今」と「人」にフォーカスをあてた情報を発信していきます。
SNSアカウントのお知らせ
「リガーレタイムズ」では、SNSでも活動風景などの情報を発信しております。ぜひブログとあわせてフォローよろしくお願い致します。
Follow : @ligaken